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2009年7月14日
においを測定した物質1200種 人間の感覚をデータ化精度追う
島津製作所
分析計測事業部事業戦略室課長 喜多 純一さん(52)
10種類のフランスパンを求めて、汗だくで東京の街を歩き回った。06年夏。銀座の店で目指す最後のパンを仕入れると、京都の本社研究所に戻るため新幹線に飛び乗った。
その数日前、ある食品団体で実験が行われた。異なる10店のフランスパンのにおいをパン職人らがかぎ、炊きたての米の風味に近い順番に並べる。パン集めは、開発した「におい識別装置」と人間の嗅覚の制度を比べるため。装置が判別した順番は、人での実験結果とほぼ一致した。
「においの数値化」に携わって15年間になる。においを測った物質は1200種。生理学、化学など、においの学術研究と、食品、化粧品など様々な実用分野とをつなぐ。
入社して10年以上、赤外線センサー関連の研究開発を担当していた。転機は94年。「分析機器に新風を」と社長が発案したのが、においセンシング(探知)だった。
「挑戦してみないか」と言われたが、実はあまり気が乗らなかった。「においの感じ方は気分で変わる。いわば心理学の世界。工学屋の出る幕じゃない」と思ったからだ。
複数のセンサーを使った高度な技術開発には興味があり、引き受けてみた。だが、具体的なイメージが皆目つかめない。一体誰が、どう使う商品が求められているのか?
悩みつつ食品会社や機械メーカーに足を運ぶと、食品会社では異臭による返品騒ぎ。自動車会社は室内のにおいの抑制に四苦八苦していた。「不快に感じるにおいの質と強さか」。目標が決まった。
人の鼻には、400種類近いにおい認識センサー「レセプター(受容体)」がある。これをヒントに、10個の人工センサーで、におい成分を9系統に分ける方法を開発。研究開始から10年目の03年6月、現在のにおい識別装置を発売した。自動車や住宅内のにおいを抑える素材選び、においのしない食品用包装紙づくりなどに役立っている。
五感や感性研究、心理学といった学会にも足を運ぶ。心理学者からは「心理学ほど客観的なものはない」と言われ、当初の認識に恥じ入った。同時に、感覚を統計的に分析する姿勢に感心した。
「においへの反応の個人差は、記憶などと結びつくから。でも、かいだ直後の認知は客観的」。フランスパンの実験でこう確信した。その客観的なデータを座標に落として分布図を作れば、「風味が良い」「くさい」といった主観的な評価が、視覚化・相対化できる。そんな機能の新しい装置を開発中だ。「見えない物を、見えるように変えていけるのがうれしい」
企業の商品開発を支援する「味香り戦略研究所」(横浜市)の柴田宗紀マーケティングサービス部長は、「例えば20代と40代の女性の好む香りの傾向が数値化されていれば、開発の方向性が示しやすい」と、新技術に注目する。
「においを、例えば『おいしそう』と判断するのは脳。脳科学と組めばもっと制度を上げられるかもしれない」。一休みして飲むコーヒーの香りにも、次なる発想がふくらむ。(和気真也)
日本人は一般的に、においや香りに敏感だと言われる。
においの研究に詳しい外崎肇一・明海大学教授は、「今はアロマが人気だが、日本には元々、香道など香りを楽しむ文化があった」と指摘する。食生活が欧米に近づいた現代は体臭への意識も高まり、服や靴のにおい、建築資材のにおいも敬遠される。「生活のにおいを消す傾向が強まっている」と外崎教授。
関連市場は活発だ。調査会社の富士経済の調べでは、芳香・消臭市場は室内用で98年に183億円だったが、07年には266億円に伸びた。トイレ用は90年代に拡大した後、脱臭機能付きトイレなどの普及で一服しているが、自動車向けは堅調だ。
75年にトイレ用消臭剤「サワデー」で市場を開拓した小林製薬は、時流に合わせた商品づくりをしてきた。95年発売の「無香空間」は、さわやかな香りを売りにしてきた同社にとって「大きな挑戦」だったが、すぐに30万個が売れた、という。
P&Gが98年に国内で発売した「ファブリーズ」も、洗濯以外で布や衣類のにおいを抑える革新性が受けた。布用消臭スプレー市場は、05年の147億円から07年に201億円と急拡大した。
産業のすそ野はさらに広がる。医療分野では、特有のにおいからがんを発見する研究も進む。聴・視覚障害者に、においで危険などを知らせる仕組みも考えられている。
2009年7月13日 朝日新聞夕刊